内面世界の豊かさについて
今も昔も、傍から見ればパッとしない私だけど、内面世界の充実度は高かったんじゃないかな?と思う。
音楽とか映画とか本とか、媒体は何でも良いんだけど没頭して感動する度合いが高かったなぁと。
感動の深さって他人と比べられないから、実際はどうかはわからないけどね。
ホフディランの「恋はいつも幻のように」を聴いてたとき、背骨がぞくぞくっとしてシビれるような感覚があったことを覚えている。衝撃的な体験だった。
(ああ、よく「シビれるね」なんて言葉を使ったりするけど、こういう感覚のことを指してるのかな?なんて今思った。)
コンプレックスは色々あったけど、「私はこれが好き」ていう思いが自信に繋がっていたんだよな。
こんな素晴らしいものを素晴らしいと思える自分は素晴らしい、みたいな。
過去形なのは、内面世界がしょぼくなってきたからです。
年齢のせいかな?なんて思ったりするけど、いつまでも感動できる人もいるし、私自身も体調によって感動度が違うことを実感するのでコンディション作りもしなきゃかな、とか。
あとは情報の多さについていけてない、ということかな。ネガティブな情報を見るとすぐそっちに引きずられて、自分の感動とかを信じきれない感じ。
その例の一つとして、小山田圭吾氏のオリンピック騒動かな。
小沢健二と小山田氏のユニット、フリッパーズ・ギターが大好きだったから。
小学生の時、家にあったMDを聴いて衝撃的だった。これもシビれる体験だった。
その頃にはとっくに解散済みだったし、まぁ時代が違うから、彼らについては調べず音楽だけを楽しんでいたのよ。
なんとなく悪い噂があることは知っていたけど、見ないようにしてた。
というところで、あのオリンピック騒動で大々的にインタビュー記事が人目につく状況になったわけだね。
正直、テレビあんまり観ないし、大々的に報道されたあとも、あまり積極的に知ろうとはしなかったから断片的にしかこの問題を知らない。
その断片的な部分のみでも、小山田氏は酷すぎるので擁護する気は一切ないし、仕事を降ろされたのも当然だと思う。
…なんだけど、私がフリッパーズ・ギターの曲を大好きなのもまた事実なんである。
嫌いになんか、なれないよ。
こんなにも美しい曲を生み出せる人が、なんであんな酷いこと言ったの?
フリッパーズ・ギターの曲なんて、パクリだし全然良くないじゃん、センス悪いって思われるかもしれない。
確かに、音楽理論とか歴史とかそれほど詳しくないからそうなのかもしれない。
元ネタがあることは知ってる。むしろ元ネタ調べてそっちも聴いてた。
それでもフリッパーズ・ギターの曲の方が好きだったの。
彼らの曲と、私は共鳴していたんだと思う。
じゃあ曲は好き、でいいじゃないかってことなんだけどさ。なんか、自分の感性に自信が無くなってきたのも事実。
感性なんてなくて、メディアとかに洗脳されてるだけじゃない?とか思っちゃう。
3S政策とかね、そういうの知っちゃうとさ。